からい、鋭い、つらい。
舌が麻痺するくらい、涙が出るくらい。
「……あ……っ」
手がすべった。よく手入れされた刃物が肌の上を走って、一瞬間を置いてからつきりと痛みが走る。じくじくと痛くなる。
「…………あぁ……」
ソフィアの口からため息が漏れる。
左の手の甲に走った赤い筋に、痛みからではなくてなんだか泣きたくなって。もうひとつため息を吐けば、ひょいと近くなる太陽の色の髪。のぞき込んでくるクリフ。
「珍しいな」
「たまにはやりますっ」
あきれていない含みのないつぶやきに、思わず返したのはつんけんととがった言葉で。しまったと身をすくませれば、南の海の青が苦笑に細くなって。
くしゃり、髪をかきまぜられた。
そのまま無言で、水場まで引っ張って行かれる。
こまめに掃除をしているはずなのに、ほこりが細かく散っていて窓から入る光が筋を描いているペターニの工房。いつだってばたばたと誰かしら出入りしている工房は、ただ、この瞬間珍しくそれなりに静かだった。
工房にいるのがただ二人だけだったから。
調理をしていたソフィアと、鍛冶に飽きたクリフだけだったから。
「大丈夫ですよ……っ、ヒーリングかければ、こんな傷すぐに……、」
「――ああ、そういやそうか」
流水に薄く赤が流れて、冷たい水に手の感覚が麻痺していく。
逃げようとするソフィアを押さえ付ける手は、力強く強引だったけれど細かいところでどこか優しかった。優しかったからソフィアはなかなか文句が言えなかった。
やっとのことで彼女が小さくつぶやくころには、血は完全に止まっていて。手の感覚がすっかり鈍くなっていて。
ソフィアがつぶやくまで本当に気付いていなかったのだろう、そうかそうかとつぶやきながらあっさり離れる大きな手。あれほど力強かったのに、手首を握られた感覚はすぐに霧散していく。感覚は消えるのに、印象だけが残る。
力強さ、優しさ、熱。余裕。
なんだか不思議な感じがして、そんな自分の手首を見下ろしたままソフィアは戸惑う。
困惑する少女を見下ろして、そのままどこかに行くと思ったクリフはただじっと立っている。無言のままで威圧しないままで、ただ、そこにいることで早く癒せと急かしている。
恐る恐る見上げれば、暖かな青が優しく笑う。
「……ヒーリング」
血も止まったし、このまま放っておいても良かったけれど。優しい目で見下ろされて居心地が悪かったから。
しぶしぶ唱えた呪文で、皮一枚とほんの少しの傷は、跡形もなく消え去った。
これでどうだと上目遣いに見やれば、よくできました浮かんだ笑顔がくしゃくしゃと髪をかきまぜる。
ソフィアは唇をとがらせる。
「……髪、ぐちゃぐちゃにしないでください」
「あ? ああ、そうだな。悪ぃ悪ぃ」
本当にそう思っているのか、きっと思っていないだろう軽い謝罪。けれどクリフの口から漏れるそれには、なんだか嫌味がない。確かにどうでもいいことだね、苦笑したくなる。
どこか安心して、ソフィアは細く長く息を吐く。
――フェイトとは大違いだ。
悪気のない笑みも、ちょっとした軽い謝罪も、すぐに年上ぶるところも。
傷の消えた手の甲を何とはなしになでながら。ソフィアはさらにため息を重ねる。
同じなのに、けれどフェイトとは大違いだ。
――だって、腹が立たない。
――フェイトと違って、クリフさんなら腹が立たない。
また、ため息が漏れる。
青い目が、優しく笑っている。
「ええと……これ切りゃ良いのか?」
「え? ああ、いいですよクリフさん! わたしやりますから!!」
「いいっていいって。さっきのは大したことなかったから良かったけどよ、大怪我したらコトだろ? 指示してくれりゃ十分だ、今暇だしな」
そのままソフィアがぼーっとしていたら、いつの間にかクリフが移動していて。先ほど彼女がてこずったかぼちゃを手にすると、逆の手に調理用ナイフをかまえた。
だんっ!
あまり力を入れているようには見えなかったのに、あっさりかぼちゃはまっぷたつになって。それなりに大きな音がひとけのない工房に響く。
音に驚いて身をすくませた彼女がぱちぱちと目を瞬くと、半分振り向いたクリフがいる。
「次は?」
「……じゃあ、お願いします。ここを……」
「おう」
だん、だんだん!
かたい生のかぼちゃがどんどん細かくなっていく。大したことがないような顔で、クリフがさくさく切り分けていく。
――すごいなあ、ソフィアは思う。
――いいなあ、と思う。
「……わたしが悪いんですか?」
「んぁ?」
切ってもらったかぼちゃを鍋に入れて、少しの水でふっくら炊き上げながら。それとは別に事前にふかしておいたかぼちゃを裏ごししながらソフィアが不意につぶやいた。
椅子の背を前に行儀悪く腰を下ろしたクリフが、何のことだと首をかしげる。
そうしてからふと気が付いたのか、表情を明るくして顔をまっすぐにする。
「そろそろ一週間だったか?」
「……気付いてたんですか」
一週間。
この町で羽をのばしはじめてから、ソフィアがフェイトに冷たく対応するようになってから。それから過ぎた時間。短くも長くもない、短くも長くもある期間。
クリフが苦笑する。
「あからさまだからなー」
「でも、フェイトは気付かないんです」
裏ごしの終わったかぼちゃを別の鍋に入れて、チキンブイヨンでのばして。ポタージュを作るソフィアは小さく息を吐く。
「嫌いなものがあるなら前もって言えって、今まで何回もフェイトに言ったのに」
――何度も言っているのに。
その場では分かったよと安請け合いをして、けれどフェイトは何も変えてくれない。
だからここ一週間、いちいち目に付くところに食材を置いてみたけれど。今日はこれを料理するよとアピールしてみたけれど。
それに気付かないのか、別に意図があるのか何も言わないで。
手伝いもしないで調理して出てきてはじめて、露骨に顔をしかめては、いかにもいやいやしぶしぶ食べて。もしくは食べないで残して、最後の最後に文句を付けるフェイト。
――最低だと思う。
ソフィアが大きく息を吐く。
「わたし、フェイトが好きなんです。
黙っていて最後に何か言うのはフェイトの悪い癖だと思うし、ずっと前から直してほしいって言っているのに。好きだから気になるのに、だから指摘しているのに。
ひとことでいい、先に言ってくれるなら。まだ別の方法を探すのに」
食材を目にした時点で、これ食べたくないだとか。皿に盛り付ける時点で、おいしく食べられないから量を減らしてくれとか。ただ一言、そう言ってくれるだけでいいのに。
それなのに、幼馴染は毎回毎回あとになってから文句を付ける。いかにもソフィアが悪いように、言葉では何も言わない、ただ態度で責め立てる。
それはとてもとても腹が立つ。
「クリフさんみたいに、分かってくれないんです。……言葉が通じない」
馬鹿ではないと思うから。事前の一言を、だからいちいち求めないのに。言えと言わないソフィアが悪いと開き直って、言いたいことがあるなら言えとむしろ怒ることさえある。
フェイトの言葉どおりに、先に言えと怒る自分はなんだか子供っぽいと思うから。だからソフィアは何も言わない。
「ねえ、クリフさん。これってわたしが悪いんですか? フェイトに期待しすぎてますか?? わたしの努力が足りませんか?
怒っちゃいけないんですか?? 怒っているのに、すねていると思われて。勘違いされるのが哀しくて。「怒る」も「すねる」も一緒くたにされて、それが悔しいわたしは、細かいんですか? わがままなんですか??」
――それなのに、フェイトの欠点しか見えないのにフェイトに腹が立つのに。
それなのに、なぜだろう……結局好きだから。どんなにフェイトの嫌な面を見ても、見せ付けられても。嫌いになれないから。
淡々とつぶやいているうちに感情が高ぶったのか、ソフィアの視界が潤んだ。塩加減を見て荒いこしきにポタージュをくぐらせながら、ソフィアはあわてて瞬く。
期待してはいけないのだろうか。いつか分かってくれるだろうと、期待してはいけないというのか。嘆いてはいけないのか、泣くのは卑怯だろうか。
どうしたら、分かってもらえるのだろう。
好きなのに。好きだから、言わないのに。
――そのうち嫌いになれば、もっと何か言えるようになるのだろうか。
――嫌いになったなら、言う気力はもっとなくなったりしないだろうか。
「フェイトが……っ、クリフさんみたいに大人ならいいのに……っ」
全部言わずに分かれとは言わない、言えない。ソフィアだって、フェイトのすべてが分かるはずがないから。分からないから、どうしたら分かってくれるのか分からないからこうして悩んでいるから。
だから、自分にできないことをフェイトに求めるつもりはない。
けれど。けれどソフィアがある程度フェイトの行動を読むくらいには、フェイトにもソフィアの考えを読んでもらいたい。理解してほしい、言わなくても分かる仲になりたい。
「幼馴染」ではなくて、「兄」と「妹」ではなくて。一人の人間として、フェイトと対等になりたい。
そう願うのは、勝手だろうか。
「……十九と三十六じゃ、倍近く違うぜ」
「でも……っ」
分かっている、でも。でも。
淋しさにしゃくりあげながら。フェイトが実は嫌いなかぼちゃのフルコースを作りながら。ソフィアはただ泣いた。
まるで嫌がらせをしている自分が嫌だった。美味しく食べてくれないと、分かっていて料理を作ろうとしている自分がこっけいだった。
フェイト一人のために作っている料理なのに。
フェイトは決して、この料理を心から「美味しい」と言わないのに。
この空回りは、今の自分とフェイトのようで。悔しくて哀しくて切なくてつらくて。
優しい手がくしゃくしゃと髪をかきまぜて、それでさらに泣けた。
嫌なところしか見えないのに。
それでもフェイトが好きな自分が、苦しくて苦しくて苦しくて。
からい、鋭い、つらい。
舌が麻痺するくらい、涙が出るくらい。
期待するたびに裏切られて、
分かってもらえないことは、なによりつらい。
