ただの、いたずらだった。
思いつきの、その場の勢いの、深い考えのない。
……そんな、つもりだったのに。
「あ。マリア、このあと、」
彼女を見つけたのは、宿の窓辺だった。
いつの間にエリクールの語学を身に付けたのか。彼にはスキャナの翻訳機能を使ってさえ、まるで虫食いで意味の分からないだろう分厚い本を、けっこうなんの苦労もなさそうに読んでいた。ぱらりぱらりとページをめくる速さは少し早め、時々気になる記述があると手の動きがぴたりと止まる。
「……」
この町を出たら今度はどこに向かうのか、相談しようとしていたフェイトは少し迷う。
アイテムは補充したし、体力精神力共に全員回復した。旅の準備は万全だけれど、果たして先を急ぐのか、それとも適当な場所にキャンプでも張って、そこいらの敵を倒して力をつけようか。
どちらでも良かった、というかどちらも良いように思えて最善か彼には決めかねて。時間も強さもどちらも大切で、彼には決めかねて。
だから、冷静な判断を下すマリアに一言ほしかったのだけれど。
……どうしようかな。
なぜか二歩ほど戻って彼女の目が届かない場所で、フェイトはうーんと首をひねる。
マリアの集中力がものすごいことは、いい加減短くはない付き合いの中で十分以上に分かっていた。何かに夢中になると、彼女の集中力はものすごい。時々呼吸さえ忘れることがあるらしい。
そして今、本を読んでいる彼女のあれだけ真剣な顔を見れば、今この距離で声をかけながら近付いたところでまず気付かないだろう。窓の桟に軽く腰を預けている彼女の横に、真似して腰を下ろしても全然足りない。そこで話しかけても生返事が帰ってきて、けれどマリアは確実に気付いていない。
そのくせ、一体どんなタイミングなのかいきなり気付いて勝手にびっくりするのだ。
――フェイト、キミね。来たなら来たでちゃんと声かけなさいよ。
――さっきからずっといたじゃないか。何度か話しかけて、マリアもちゃんと返事してたし。
絶対に、そんな会話になる。何度もくり返されたそんな会話が、きっとまた展開する。
――違うわよ。絶対に、違う。つまらない嘘なんて吐くんじゃないわよ。
――いきなり疑うなよ、マリア。失礼だなあ。
気が付いたらけんか腰で、お互いの機嫌にもよるけれど、ひょっとしたらそのまま口喧嘩になって険悪な雰囲気になって。そうなると誰かが仲介に入るまできっと舌戦だ。互いに喧嘩なんかしたくないのに、互いに引くに引けない。
きっと同じくらい、頑固で負けず嫌いだから。変なところで子どもっぽいから。
「……どうしようかな」
今度は口に出してつぶやいて、フェイトはうーん、と首をかしげてみた。
どんな会話になるか、その後どうなるかは分かっても。予測がついても、経験から分かりきっていても。分かっているくせに、毎回同じことをしてしまう。大人になって一歩引けば良いのに譲れば良いのに、どうしてもムキになってしまう。
だから、「いつもと違う何か」を考えないと。
ダメ元でも何でも、やってみないと。
マリアに関わりたくないわけでは、決してなくて。
ただ仲良くしたいから、それなのにお互い妙に不器用だから。
顎に手を当てて、ぎゅっと目を閉じて眉間にしわを寄せて、あるいは天井を上目遣いに見上げて次に壁と床の境い目をじっとたどって。もやもやと浮かんできた考えを一生懸命にまとめて、何バカみたいなことに真剣に悩んでるんだよとむくむく育つツッコミを無視する。
考えることは、良いことだ。
それが馬鹿げた内容でも、考えることはきっと良いことだ。
いろいろ想定して、ああきたらこうなってと次を想像して、思うようにするにはどうするか、考えることはきっと良いことだ。
――ああ、これっていたずらを考えるときと似てるよなあ。
ふとそんなことを思って、思った瞬間フェイトの脳裏に作戦が固まった。細かいところはすっ飛ばして、完璧に思えたその作戦に。
すぐさまゴーサインを出す。
「マリア、あのさ……これから、どうしようかな?」
「んー……?」
隠れていた壁から何気なく出て、たった今向こうから歩いてきたように何気なく出て、彼女の元に向かう。予想通りマリアは本に夢中で、語尾が上がった返事も、きっと自分で気がついていない。
だから、このまま「いつも」をくり返したら、最後は喧嘩になることは見えていたしそれは回避したかったので。作戦実行に移ることにする。
移ることにしたけれど、とりあえず、
「先急いだ方が良いかな、それとももう少しどこかで修行する?」
「そうね……」
先に続きそうで、返事を待ってもきっと無駄に終わるマリアの相槌。そのころには彼女の前に立っていて、ページが陰ったのか彼女が少し横に本を逃がす。
「どうしたら良いだろう、マリア?」
「どっちが良いかしらね?」
「マリアだったらどっちにする?」
「そうね、私だったら……、」
「だったら?」
「……どうしようかしら」
「あのさ、マリア」
「何」
ただの、いたずらだった。
思いつきの、その場の勢いの、深い考えのない。
作戦まで練っておいてどうだとは思うけれど、そういう気持ちだったのだ。
「キスしても良い?」
「んー……」
どこまでも予想通りの生返事。だからフェイトは言葉を素直に実行した。
さすがに少しだけ迷ってから、右手を伸ばして彼女の即頭部、顔にかかる前髪をかき上げる。そこまでしても特に反応をしないので、そのままなめらかでやわらかでまろくシャープなラインを描く頬に、
「!!??」
ただの、いたずらだった。
思いつきの、その場の勢いの、深い考えのない。
……そんな、つもりだったのに。
手はまだ彼女に触れたままこぶしひとつ分離れてみたら、ばっと顔を上げた彼女がきょとんと優雅にまたたいて。大丈夫そうかな、とその反応にフェイトが少し安心した、その瞬間。
ぼふっ、
いつもは人形めいてさえ見える整ったその顔が、一気に朱に染まった。ぱくぱくと口が動いて、でも声は出なくて。手から力が抜けたのか、今の今まで大事に抱えていた本がばさっと落ちた音がする。
「……あの、」
ただの、いたずらだったのに。
普段まず絶対に見ないあわてふためくマリアに、照れまくりで混乱するマリアに。その、あまりの恥じらいぶりに。
ばふっ、
今度はフェイトの顔に朱が昇った。
二人して真っ赤に染まって、何も言えないまま。
とりあえずフェイトが一歩、よろめきながら後ずさる。
後悔ではないけれどいたたまれない気持ちに、頭がぐるぐるして。
視界にはただ、赤くなってうつむくマリアの顔しか見えない。
